<下段左端 池田満寿夫、上段右端 荒井一章/不忍画廊会長>
長野県立長野北高等学校(現長野高等学校)1年生の頃の集合写真。 荒井一章とは、ガリ版摺りの同人誌「アゼリア」を一緒に出していたり共に文学青年だった。作家と画廊という関係を超え晩年までずっと友人関係として続いていく。
<左から堀内康司(画家・生涯の友人)、真鍋博(イラストレーター)、福島繁太郎(フォルム画廊主)、靉嘔(アイオー・現代美術家)、池田満寿夫>(撮影:奈良原一高)
堀内氏の呼び掛けで集まった4人のグループ 「実在者」。1955年、福島繁太郎氏のフォルム画廊で「テーマ【戦争】展」を開催時の写真です。
わずか2年、計3回の企画で解散するが、その後、各作家それぞれの分野で活躍していく。池田はこの後靉嘔氏の紹介で浦和の瑛九を訪ね、色彩銅版画を制作するきっかけとなる。
<中央 池田満寿夫、右 堀内康司>個展会場にて・・・「池田満寿夫銅版画展」1961年4月24日~29日 不忍画廊
第2回東京国際版画ビエンナーレ展受賞後の翌年(1961)たびたび不忍画廊に来ていた堀内氏からの強い推薦があって不忍画廊(当時は上野池端)で銅版画の初個展を開催。受賞直後ではあったが、銅版画や池田の作風は、当時の日本ではまだまだ難しい芸術であり、美術ジャーナリスト等からも「ほとんど無視された…」と池田は後年、自叙伝に書いている。
<上記1961の初個展でも展示された4点>池田満寿夫展“1966”(2013.2月、不忍画廊・日本橋)での展示風景
左端の1点「月の祭り」(パリ青年ビエンナーレ展受賞作)、右3点「女の肖像」「女・動物たち」「女」第2回東京国際版画ビエンナーレ展《文部大臣賞》受賞作(堀内康司氏旧蔵)
<個展会場にて>1963年9月 日本橋画廊、撮影:堀内康司
1963~1969、池田満寿夫が日本から世界へと駆け上る時代と日本橋画廊との契約時代は重なります。1964東京国際版画ビエンナーレ展《国立近代美術館賞》受賞、1965ニューヨーク近代美術館で日本人初個展、1966ベネツィアビエンナーレ展《版画部門大賞》受賞等々。日本橋画廊はずいぶん前に閉廊したが、不思議な縁もあって現在の不忍画廊と同じビルの2Fにあった。
池田満寿夫展“1966”(2013.2月、不忍画廊・日本橋)での展示風景
日本橋画廊時代と重なる1963~66の代表作
<ヴェネツィアビエンナーレ展日本館展示風景、撮影:篠田守男>
第33回ヴェネツィアビエンナーレ展で《版画部門大賞》を受賞、対象となった作品は28点の銅版画。この写真から4点一組のパネル装で展示した事がわかる。一組のパネルサイズは各作品イメージサイズ×4点、この写真から想像して100号キャンバス位であると思う。
1966同じビエンナーレ展で出品された彫刻家・篠田守男氏が来廊、一番印象に残っているという「愛の瞬間」1966の前で。
<池田満寿夫展“1966” 2013.2月、不忍画廊にて、撮影:荒井裕史)